皆さんはじめまして!
このサイトhttps://panilove.com/ の管理人、ふーさんと申します。
敬称略で「ふーさん」と呼んでください。
ありがちな「HN(ハンドルネーム)+さん」で”ふーさんさん”では無く、”ふーさん”と呼んでください。
写真を見る限り、深刻な感じではありませんが、ワリと重篤な現在進行系メンタル疾患サバイバーです。
元々はパニック障害やうつ病、不安障害や双極性障害、自律神経失調症や統合失調症などと色んな診断名を言われた私、一時期は飲酒と投薬を行い、乱用した時期もあったり、お酒の依存状態もありました。
現在は通院も投薬もしておりません。タバコを辞め酒を呑む回数も量も激減。ウソのように健康志向な生活をしております。
顔出ししてますが、出たがりではありません。サイトで発信している事に信憑性と、責任を持たせる為です。
いわゆる時代の流れってヤツです。
よろしくおねがいします、ではスタート。
私の病歴
それではまずはじめに、私のメンタルヘルスに関する病歴を紹介したいと思います。
そもそもがハードな人生で、幼少期に開頭手術をしたり、20歳の頃に気管支拡張症で吐血したり、色々とやらかしてはいますが、ワリと健康には恵まれた身体だったと思います。強いワケでも無いですが、エネルギッシュで同世代からでも「タフだねぇ」と言われる事は多かったです。
そんな私がメンタル疾患?えぇ?って事なんです。
元々、うつ病とかで休業するタレントさん等を見ると「気合が足らんのだろ」とか思うタイプの人間で、ましてや自殺や心中なんかのニュースを見ると「死ぬくらいなら死ぬ気で頑張れば乗り越えれただろ」と、TVに向かって揶揄するような人間でした。
そんなコトを言っていた自分を、今はただただ反省するばかりです。
また、このブログを書いた経緯や理由については、↓の記事もご覧になって頂けるとメッチャ嬉しいです。
以下が私のメンタルヘルスに関する病歴となります
病歴時系列
子供の頃から大きなケガや病気は無かったワケでは無いですが、全て乗り越えてきた為、そういった闘病?とかに対しての耐性はかなり強かったと思います。高熱が続いたりしても学校に行って遊んでたり、吐血するまで仕事してたり(インフルエンザなのに仕事してて解熱剤の飲みすぎ)ホント強かった私。
でも20代後半よりその神話が壊れ始めます。ちょいと長いですが、是非目を通して下さい。
2001年頃より仕事中にムズムズ感やめまいが起きる
27歳の時、仕事に遊びにピークな時期だった為、飲酒やいけない事で不調を誤魔化す生活が続いてました。毎日、酒を浴びるように飲み、夜遊び女遊びが連日。色んな意味でピークでした。
この頃に、嫁さん(離婚済)と出会って同居がスタートしています。
日本酒をジョッキに入れて飲んでました。普段の飲酒量は日本酒やワインを1日に5合程度。休みの日は朝からゲームしながら1升程度飲んでました。これが毎日です。
日本酒はやがて焼酎に代わり、飲む量は変わりませんでしたが、お酒の度数は倍になりました。焼酎…常にロックです。
2005年頃は酒を飲んで無いと不安が出るようになる
仕事中でも酒が呑めるよう、ペットボトルにジュースで割った焼酎等を入れて出勤してました、、、(多分臭ってたよなぁ)休みの日は朝から晩まで飲みっぱなし。
この頃、精神薬は飲んでませんでしたが、酒は常に飲んでいた状態。テレコミの仕事をしてたので、酒の力で饒舌になる為、一石二鳥と思ってたバカな私。完全にアル中でした。
出勤前に吉野家で牛丼+日本酒を頼んだりして、罪悪感を感じながらも常に酒酒酒。お酒の無い生活は考えられない状態で、飲酒の量よりも四六時中の”飲酒状態”が当たり前の生活を送っていました。
ちなみに私の父はアル中によって肝硬変になり、10年ちょっとの闘病の後、肝臓がんで他界しました。
2007年にパニック発作を起こしパニック障害発症
胸部の痛みが1日続いた後、深夜に発作が起き、その時はこれが「死ぬって事か…」と思いました。お手本のような発作を経験して、生まれて間もない乳飲み子を連れて嫁の運転する車で、救急病院を2軒ハシゴ(1件目は救急の内科医が不在との事)。
心電図を取られながら「お子さんもまだ小さいのに…頑張って!しっかりください」と(ドラマや映画のように)看護師に励まされたので「これ死ぬパターンのヤツやん…」と諦めてましたが、死にませんでした(笑)。そのまま点滴受けて1晩入院し翌朝一人でタクシーで帰りました、、、が、これってどうなん?。
発作が起きた日から似たような症状が続き、2007年5月22日に近くの内科にて「パニック障害です」と診断を受けました。その時の処方はソラナックス(コンスタン)とレスタス、めまいの頓服としてメリスロン。
早く飲みたい気持ちと、飲む事への不安が入り混じり、複雑な心境のまま遅刻して会社に向かいました。
飲むのを躊躇して、初めて口に入れた時に『自分は精神病なんだ』とか『嫁よ子供よ母ちゃんごめん…』と泣きながら飲んだのを覚えています。職場のデスクで飲みました。
2008年絶望感に包まれてうつ病(鬱病)発症
投薬約半年後から食欲減退と胃の不調があり、胃腸科で初めての胃カメラ→異常なし。1年後あたりから抑うつ状態が続き、ボーっとしてる日が続くので受診すると、医師から「うつ状態です。これが続けばうつ病ですね」と宣告。
もう数ヶ月も続いてからの受診でしたので、実質うつ病(鬱病)でしたが、うつ病であるという自分が嫌で『(自分は)あくまでもパニック障害なんだ』と言い聞かせて、誰にもうつ病の診断のコトは言いませんでした。それもストレスになってたかも。
この時の処方は前の処方である、ソラナックス(コンスタン)とレスタスに追加でドグマチールとアモキサン。病院の帰りに車の中で飲みましたが、その後嘔吐して飲むのが嫌でした。
最初の2週間くらい飲んで、勝手に辞めました。最悪な薬だったと記憶しています。
2008年 不安障害・適応障害?
自分が自分で無い感じや、何に対しても不安や恐怖を感じ、動悸や発汗も起き始めたのもこの頃です。それに過剰反応等を起こして凶暴になったり、嫁とケンカした時もモノを投げたり、感情のコントロールが出来なくなっていました。
医師からは「このまま重症化すると統合失調症と診断せざるを得ません」と宣告されてショックを受け、更に飲酒と薬の乱用が重症化します。
そんなバカな、、、とすごく落ち込みました。全ての物事に過敏になり、不安とそれに対しての過剰反応の繰り返し。
説明不要で私はすでに壊れていたのですが、それに気づくのはもう少し後になります。
人よりもネットに精通していたので、パニック障害の方のブログを見まくりました。殆どの人が「うつ病」や「適応障害」等を併発(重症化)されてるのを見ては震えていました。
自分も同じようになっている…と酷く落ち込み、誤魔化すような毎日が続きます。
2009年 慢性的な酷い肩こり・頭重感・めまい・身体の冷え等
所謂”自律神経失調症”の症状のようなものが日替わりで起きてかなり辛い毎日。誤魔化すように酒を飲む日々が続き、薬と酒の量が確実に増えていってました。特に飲んだ後の頭の切れ味が良くなるソラナックス(コンスタン)は、処方されたらすぐ飲み終えてました。
不調があっても、頭が明瞭な状態であればスッキリするのです。今思えば怖い。
病院に行くのが恐怖になり(精神病院に入れられると思っていた)、受診の際も重症化してない自分を演じてました。なので医師はソラナックスを減らそうとするのですが、「一応…お守りでください」と言って処方して貰ってました。シャブを貰いに行くような感じです。
経過は良くないのに、落ち着いていると嘘をつくようになりました。自分にも担当医にも。
2013年頃 摂食障害?
軽い食事で気分が悪くなり、今まで通りの食事が摂れなくなる。半年で体重が約8kg程落ちる(その後12kgまで落ちる)。抗うつ薬を飲んでると、体重の増減が激しいというのは聞いていたが、72kgあった体重が半年もせずに減っていく。酒も飲めなくなっていました。
生命の危機を感じ、本格的に原因の探求をするようになります。が、嫁の理解は得れませんでした。減薬や断薬の事、その先にある離脱症状の話なんかも「あーーーその話やめて!!」と吐き捨てられるように言われる始末。完全に心の中で音を立てて何かが壊れました。
皆さんに着目して欲しいのは、この病歴の間、私は病院への受診と投薬をし続けていたという事です。
私は、薬で安定していたと思っていました。が、出ては消えを繰り返す不調があったり、性格が凶暴化していた事、酒への依存が強くなったり、周囲が敵に見えたりと、完全に私の精神は崩壊していました。
それにハっと気づいた時には、既に全てが壊れていました。
この後、10年以上連れ添った嫁と離婚。子供と離別(家庭崩壊)。性格崩壊による仕事のトラブルで1400万の損害賠償請求を受ける。
母もメニエール症候群になったり、、、
この時私40歳。薬漬けで自活困難…ありとあらゆる不調と1400万の負債を抱えて、完全に私の人生は終わったと思っていました。
しかし、私の人生はまだまだ大きく沈む事になります。
最悪な時はどんな状態だったか?状況と不調
2010年頃には仕事も出来ないような状態となって、自宅に引きこもりがちになり、自営業を良い事にほぼニート。
結婚もして子供も居ましたが、自分の不調を隠す為の外出として、お金にならない仕事や会食の回数が増えました。
頭重感、めまい、慢性的な胃の違和感、ちょっとした事で武者震い(震え?)や動悸、入眠時に大量の発汗等。これが毎日続くわけです。深夜に軽めのパニック発作が週に1回程度あり、横で眠る嫁さんを起こして、呼吸の誘導をしてもらったりしてました。情けない人生の時間です。
発症当時に亡くなった父親の遺産も食いつぶして、自営でやっていた仕事も政権交代や北京オリンピックが原因で事業は失敗…健康状態も私生活も全てにおいて追い込まれる状況となりました。
家族や子供を見ると涙が出る、金の事を考えると死にたくなる、病気の重症化(廃人)への不安、絶望感、やる気が出ない、不安でたまらず大声が出る。精神的な不安が出てくると、テーブルの上に常備してあった薬をかじるように口に入れてました。
※今後追記したりしたいと思います
7年以上の投薬期間の後に得たモノ
細かい事を書くと、他にもたくさんあるのですが、以上のような流れで坂を転がるように地獄の1丁目にたどり着いたわけです。
地獄の1丁目とは、「薬を飲んでも治らない・不調が消えない」という長期間投薬治療を行った人が辿り着く終着駅です。
もう少しわかりやすく言うと、皆さんと同じように病院へ診察を受けに行き、いつものようにお薬を貰って、飲むだけの日々を8年近く続けていました。お薬では治りませんでした。
その投薬治療期間は2007年から7年以上も続きました。
7年もの間、治りもしないのに「お薬のおかげでコントロール出来ている、生活出来ている」と信じて、飲み続けた事になります。
私のカバンやポケット、家中のありとあらゆるとこに精神薬は置いてありました。
常にピルケースを持ち歩き、不安や動悸がくればラムネのようにかじって飲み込む。そんな生活が当たり前になってました。
7年間飲み続けて得たモノとは、薬が無いと仕事が出来ない、薬が無いと生活が出来ない、薬が無いと生きていけない…という依存した肉体と、飲んでも治らないという結論でした。
不安や動悸には精神薬、抑うつ感やヤル気の無さには酒、完全にジャンキーでした。
そして、自分の肉体や精神だけでなく、家族も傷つけていました。
薬を辞めよう&完治を目指そうと思ったきっかけ
2010年末頃に、35年来の友人からとあるファンミーティングに誘われて、街の繁華街にあったイベント会場に行きました。当然ですが、精神薬を飲んで。
人生のドン底だった私がそのファンミーティングにおいて、キラキラとエンジョイ出来た事から歴史は動き始めます。
『仕事でなければ、まだ意欲的に動ける!』
『他人の為なら、まだ活動的な生活が送れる!』
自分の家族の事や自分の仕事等の利己的な事でなく、周囲の為ならなんとか動ける!やりがいがある!うまく表現できませんが、そういう風な気持ちが少しだけ芽生えたのです。
そんな中、そのファンミーティングのコミュニティの中で、特別に私を慕ってくれる女性と出会いました。
その女性は、私の過去の話や病気の話まで真剣に聞いてくれて、いつの間にか彼女に胸の内を話す事が増え、当時私は彼女の事を『精神鉄観音』と呼んでいました(精神的に落ち着くの意)。
彼女は私に何も意見する事なく、ただただ自分の事のように笑顔で私の話を聞いてくれて、まさに”地獄に仏”と今でも思っています。
そんな彼女が私の根本的な考えを変えてくれたのです。
それまでは
『一生薬を飲み続けるのかな?』
『いつか完治する治療法ができるだろう』
とよくある患者脳になってました。
それが彼女と一緒に活動する時間が増えていく中で、、、
『薬を辞めたい』
『病気を根本的に治療したい』
そう思えるようになってきました。
薬を辞めよう!完治を目指そう!と思ったきっかけが家族では無かったのはすごく悩みました。罪悪感でいっぱいでした。
薬を辞めようと思ったきっかけが、第三者であるその女性は、、、そう…このブログに登場する”まーさん”です。
奇しくも家族や子供の為には、こういう気持ちになれなかったのです…当時はそんな非情とも言える自分をとても責めました。
それは決して家族や子供への気持ちが無かったとかそういう事でなく”家族に弱い部分を見せれない”とか”小さい子供へ情けない父親を見せたくない”とか、私の小さな見栄やしょーもないプライドによるものだったと思います。
メンタルヘルスに悩む人たち殆どの人が抱える問題でもある、、、
「家族や子供もストレスの一部」
という盲点を私は知りませんでした。
よく考えれば当然です。嫁や子供の存在は時として”プレッシャー”となるわけです。
つまり『仕事をしなくては』『お金を稼がなくては』といった事に加えて、全ての生活の中で”父親として”という行動パターンのプレッシャーになると言う事。
みなさんにも心当たりありませんか?妻として、、、息子として、、、娘として、、、家族や親友やパートナーが自分の一番近い存在であるが故に、それがプレッシャーになると言う事。
この『薬を辞めよう!完治を目指そう!と思ったきっかけが家族では無かった』という話については別記事に書きたいと思います。
『薬を辞めようと思ったきっかけが家族では無い理由(作成中)』
当然、発症当初は完治を目指し、パニック障害やうつ病の事を一生懸命調べて、ありとあらゆる療法にも取り組みました。ヨガに通ったり、呼吸法をマスターしたり、鍼や運動、食事療法も含めてです。
が故に、そもそもの根本的な事から逃げてきてました。この事についてもまた別記します。
『うつ病やパニック障害を治すのに必要なノウハウ(作成中)』
いずれにしても幸か不幸か、まーさんとの出会いのきっかけが、私の人生を大きく変える事になりました。
恐らく自分の為やそれまでの家族の存在だけでは、僕は変わる事が出来なかったかも知れません。
僕の意識が変わったのはそう、東北に大地震が起きて日本中に涙が流れている頃、2011年の春だったと記憶しています。
私が過去に飲んでいた薬
- ソラナックス/コンスタン
ベンゾジアゼピン系 アルプラゾラム 短期間作用型抗不安薬および筋弛緩薬 - レスタス
ベンゾジアゼピン系 フルトプラゼパム 抗不安薬 - アモキサン
三環系 アモキサピン 抗うつ薬 ※劇薬 - コントミン/ウインタミン
フェノチアジン系 クロルプロマジン 抗精神病薬 メジャートランキライザー ※劇薬 - ドグマチール/アビリット/ミラドール
ベンズアミド系 スルピリド 定型抗精神病薬 ※ハイリスク薬 - レンドルミン/レンデム/グッドミン等
チエノトリアゾロジアゼピン系ブロチゾラム 睡眠導入剤、麻酔前投与薬
他にも症状が増えれば都度処方されていましたが、記録として残っているのが上記のものになります。
デパスなんかも出されたと思いますが、いつどれくらい飲んだか覚えて無いくらい荒んでたので、割愛します。
薬剤の違いはそんなに気にするものではありません。幸いにも極悪SSRI…と言われる「パキシル」を処方されなかったのは、不幸中の幸いと言えるでしょう。
生い立ち
ちょっと長くなりますが、私の生い立ちです。
病気にはあまり関係無いでしょうけど、私がどういった人間か知って頂く事で、多少なりとも近くに感じて頂けるかと思って書きました。箸休め程度に読んでみてください。
メンタル疾患の患者さんって性格や考え方が似てると言いますよね(笑)。
がんばり屋さんで博学だったり、エリートで責任感が強かったり、、、私がそんな立派な人間とは言いたく無いですが、周囲から色々と頼られたりして、まさにそんな感じだったかも知れません。
とは言え実際は、そんな立派な人間では無いです(汗)。自分大好きの典型的なA型タイプですね。
生まれて~幼少期
ごくごく普通の飲食店を営む夫婦の元に生まれました。
一人っ子だったので、それなりに両親や祖父母や親戚の期待を勝手に背負ってたような印象もありますが、今となっては親族イチの破天荒(色んな意味で)なおっさんになってます。
祖父母と両親、そして一人っ子である私の5人家族。福岡ではワリとすごいエリアに一戸建て。(祖父が戦後に買った家)
おそらく当時としては、裕福な育てられ方をしたと思います。家から十数歩のトコに玩具店があり、小学校の頃のオモチャは全てまとめ買い。キン消しやリバイバルで流行ったスーパーカー消しゴムなんかも、今で言う大人買いが当たり前。
小学3年生の頃にはMSXという家庭用のコンピューターがTVと繋がっており、当時大流行中だったファミコンは友達の家でするもの、、、というのが私のルールでした。
で、もう1つ信じられないオモチャと言えば、ビデオカメラ(笑)。
ハンディカムなんてまだまだ先の話、VHSの時代なわけです。
ご家庭でビデオなんてまだ富裕層だけの時代です。
そんな時代に、祖父が隣の家電屋で買ってきたコレ。
付き合いで買わされて、家族には誰も使いこなす人がおらず、MSXとビデオカメラは完全に僕のオモチャとなりました。MSXでゲームをやって、ビデオカメラではジャッキーチェンごっこを撮影したりして遊んでました。小2とか小3の頃です。
この頃のちょっと切ない話、母親が流産しました。
子供の頃にはそこまで落ち込む事は無かったですが、母は泣いてました。今思うとすごく切ない出来事です。
裕福に育った以外は、普通の男の子。スポーツも勉強も特に興味が無く、祖父の家でたまたま読んだ「ホリデーオート」という車雑誌をきっかけに、不良が乗るような車、、、所謂シャコタンの車に憧れを持ち、ソアラという車が大好きになりました。
小学校3~4年の頃には学校に雑誌「ホリデーオート」を持っていき、中学の頃には「シャコタン☆ブギ」という漫画にハマって、、、
このペースで書くと1年以上書くのに掛かりそうなので、割愛。
マニアックなふーさんのプロフィールはまた後日書こうと思います。
「マニアックすぎる管理人”ふーさん”の遍歴(仮題)」
しかし、平和な時代は生後わずか11年で終わりを告げます。
小学5年生の時自転車で転倒し、”視束管”という頭部の骨を骨折します。この為、片目の視野に影響が出ています。
その後遺症でしょうか、10年以上も偏頭痛に苦しむ羽目になり、思春期の一番良い時代を、手術後の後遺症と一緒に生きる事になりました。
今考えれば転倒後には無かった痛みですから、手術中の薬剤か、飲んでいた薬の悪影響では無いか?と思うようになりました。もう治ったので良いですが、高校生くらいに寛解はしたものの、常にボルタレンを飲んでたりして、最終的に鍼灸院に3年程通って完治。
そんな幼少期~青年期を過ごし、頭にエグザイルのアツシばりのライン?(手術痕)があります。42針です。
※この記事の最後に手術痕の見える写真があります。
幼少期~成人期について
偏頭痛に苦しみながらも、人並みに不良の道へ進みます。
身体も小さく、成長の遅かったふー少年は沸々と自我に目覚めていくワケですが、中2あたりでタバコ、高1あたりで酒を覚えます。尾崎崇拝かつBOOWY好きという曲者です。
人生前半戦ながらも中々壮絶なスタートを切ったのですが、この辺の話はまた後日ゆっくりと書きたいと思っています。
高校もロクに行かず停学2回、退学届にまで名前を書いて日付が入れば即退学という状態で、無事に卒業までこぎ着け大人の階段を登るわけであります。
細かく書いてると、ホント何年も掛かりそう(笑)。
現在の状況
2014年に断薬を決意し、減薬を開始するも失敗。
2015年に断薬を開始。
日本のワリと南の方の田舎で、離婚した母と祖母(父の母)という、厄介な家族構成に付け加えて、出会って9年になるパートナーと半同棲という形で暮らしています。
精神薬を辞めてから、仕事も家族も財産も仲間もほぼほぼ失った私ですが、コツコツとまた石を積み上げるように、人生を取り戻しつつあります。
未だ精神状態や体調が安定しなかったりして、文章が上手でない箇所がありますので、随時このページは加筆&修正していきます。
ご了承ください。2019年12月4日
こんな私でも13年近く闘病する事が出来ました。
そして、ささやかではありますが、通院や薬を飲まずに寛解した生活まで何とかこぎ着けています。
皆さんにもきっとそれが可能になります。今苦しい方も必ず今より良い自分がやってきます。
私がどうやって、今の自分にたどりついたか。このブログに記していきます。